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 王が密かに皇子を喚びだし、直々に命を与えて敵地へ送り出してしまったことは、周囲に動揺を与えた。議会の者が止める暇(ひま)も、家族の者が別れを言う遑(いとま)も許されなかったのだ。
 従者の者を5人だけ連れて、朝焼けの中、誰にも見送られることもなく王城をあとにした皇子の悲劇は、今でも時折語られることだ。皇子は戦場で多くの武功を立てたが、結句帰らぬ人となった。訃報を聞いたオキザリスの乙女達の嘆きは言い表せるものではない。とくに第二婦人である奥方の嘆きはひとしおで、そのため産後の肥立ちも悪く、間もなく亡くなってしまった。
 皇子を失ってからの国王はますます塞ぎがちになり、床を離れられなくなっていた。帝都は徐々に、戦地から兵を退かせていき、あとの決着はほぼバウルの3国に委ねられた。そして翌10月、戦争は終結した。

 勝利で終えたこの戦争で、失ったものより多くを手にした者がいただろうか。一体あの戦争はなんであったのか。それを明確に答えることが出来る者は少ない。陰ではあれはバウルの策謀だったのではという噂もなされたが、真相はもはや誰にも分からぬままである。
 戦争が終わって一ヶ月も経たぬ内に、王も傷が元で亡くなった。亡くなる数日前に、王は臣下の者を集めて病床から語った。
『第二皇子であるセルビアントに全権を委ねる』と。
 周りの者の動揺は尋常ではなかった。5大国を統べ、バウル3国を従えるこの強大な帝国の全権を、たった4歳の子供に、しかもあの奇児に委ねるというのである。皇帝の遺言とはいえ、これはただならぬ事であった。しかも王は、摂政をつけることも許さなかった。
 皇帝の死後、議会は仕方なしに第二皇子セルビアント=ルウイに前冠式、形だけの全権委譲を行った。本格的な戴冠は、法の定めの通り14になってからと決め、その間の政治は議会が執り行った。

 そして、それから3年が過ぎた…。


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