8−4

 しばらくしてから、女将さんが容赦なく部屋に入ってきた。疲れて寝入ってしまったらしいイウギにとって、これは寝耳に水よりも驚いたに違いない。寝坊を起こすには、割と常套の手段で彼女はイウギをたたき起こした。左手にフライパン、右手にお玉とは、彼の実家ではまったく眼にしたことのない、珍しい光景だっただろう。
 ぐらぐらと揺れる視界と、がんがん鳴り響く音に悪戦苦闘しながら、イウギは寝台から這いずりだした。
「ほらほらしっかりおしよ。朝ご飯が冷めちまうだろう?今起きなかったらいつ起きるんだい?お寝坊助!」
 ひどい顔のイウギをしっかり立たせてから、女将さんは部屋を出ていった。まだまだ床で寝ていたい気持ちはあったけれど、あんな起こされ方をするならもう御免だった。
 重たい目尻を抑えながら、よろよろと階段を下りると食堂で長男がベーコンにかじりついたままイウギに挨拶した。
「よう、ねぼすけ!夕べはちゃんと眠れたか!?」
「…それ女将さんにもいわれた。何だ?ネボスケって…」
 不機嫌そうなイウギにお構いなく、ヤナイというこの青年はへっとわらって揶揄するように言った。
「お前さんみたいのをいうんだよ。その様子じゃあ、あんまり眠れなかったようだな。ウチの宿に泊まっておいて、眠れませんでしたってなぁ、ずいぶん失礼な話だぜ?」
 言っていることの理屈が分からなくて、イウギはますます目尻を吊り上げた。頭ががんがんする。
「まぁ、寝不足なんてな、飯食って体動かせば忘れちまうよ。ほらほら、食った食った。はやく平らげねぇと、山のお上がお怒りになるぞ!」
 どうも、口数の減らない男のようである。イウギは睡魔と必死に格闘しながら、引っ掻き回された卵焼きを口に運んだ。

「ぼうず。お前、名前なんてぇいうんだ?」
今度は堅いパンを噛み千切りながら、髭を小さく動かしている親父さんのほうが訊いてきた。
「…イウギ。」
重厚な声に、これにはイウギも神妙に答えた。
「あんまり聞かねぇ名前だな。どこから来たんだ?」
「…。東のほう。」
突然の質問に、イウギは身を固くした。自分の村のことはあまり外部の人間に漏らしたくない。もう滅んでいるから、どうということも無いのだが、それでも村の秘密を守るのは一族の総意であるからだ。
「そうか。あの旅人とは随分容姿が違うようだが、どういう関係だ?親子兄弟って風には見えないが。」
「どうって…」
イウギにはうまく答えることが出来なかった。言って好いことと悪いことを、停滞しがちな頭で必死に考えた。
「俺は、前住んでいたところで家族を亡くして…それで、別の肉親を捜して村を出たんだ。たまたま通りがかった旅人(セルイ)に連れて行ってもらって…」
「人買いとか、そういったモノじゃないんだな?」
この言葉に、イウギは眼をパチクリさせた。“ヒトカイ”…?なんだ、それは?
 とたんに、ゴ〜ンという気味のいい音が聞こえた。女将さんが旦那の頭をフライパンで叩いたのだ。どちらかというと、息子より亭主の方に容赦がない。
「子供になんて事訊いってんだい!あんたは!ほんとに、ウチの男どもときたらデリカシーってものが皆無なんだから!!ほら、とっとと仕事にいっちまいな!!」
奥さんに蹴りを入れられながら、旦那が渋々テーブルから離れた。息子も矛先が向かわない内に、それに続く。玄関を出ていくまでを見送って、女将さんは子供に向かっていった。
「ごめんよ、悪気は無いんだよ。二人ともアンタの身が心配なのさ。だって、宿に飛び込んできたときのアンタの顔。血相かえてさ、ひどい顔してたよ。ひどい目に遭ってきたんじゃないかってね。」
これを聞いて、イウギは大きく首を振った。女将さんもにこやかに頷いた。
「ああ、ああ、あの旅人がそんな悪徳なことするもんかい。優しいそうないい人だね。早く良くなるといいね。」


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