8−3

 イウギにあてがわれたのは、宿でも一番小さい角部屋だったが、それでも少年にはこの空間が広く感じられた。久しぶりのまともな布団にくるまって、寝台の上で彼は一睡もせず祈っていた。体は疲れていたが、その分神経は高ぶっていた。
(どうか…、どうか無事でいて…)
 何遍と無く貴い人々の名を口にして、その一人一人に願っていた。
(どうか、どうか、セルイを助けてください…)
 尊い歴代の兄王の名、王妹の名、弟王の名、王姉の名、そして武勲高い英雄や神女の名を口にして、願いを言う。王族やそれに近い親族の真実の名は、口にするだけで願いを叶える力があるとされていた。だから普段は秘されて別の名を与えられる。イウギの名もそうだった。イウギ=フナイルという名は本来の名を約(つづ)めて、多少入れ替えて作られたものだ。
 最期に父王と姉の名を口にして、その祈りは幕を閉じた。
 子供の必死の祈りは通じたかどうか分からない。だが、自分に出来る限りのことをした後に訪れたのは、眩しいほどの朝だった。

 イウギは宿の人に気づかれないよう密かに外に出ると、濃い霧の中を記憶を頼りに進んでいった。街道の途中で隠した荷物を取りに行くためだ。
 夜に必死になって歩いた道と違い、朝の街道は穏やかで静かだった。時々鳥がさえずるのを耳にしながら、イウギは目的の場所まで走っていった。程なくすると、川のせせらぎが聞こえ、あの樹の根元に辿り着いた。
 背後の繁みを漁ると、果たして残りの荷物があった。巧妙に隠していったおかげで、盗賊にも獣にも荒らされなかったようである。イウギは中身を確認したあと、それを背負おうとしてふと黄金の杯に目を留めた。
 青年はなんでこんなものを持ち歩いているのだろう。使ったところを見たことがないし、コップ代わりというわけでもなさそうだ。不思議な光を放つ、その杯を、イウギはしばらく眺めたり触ったりしていたが、やがて正気を取り戻して荷物の奥に仕舞い込んだ。袋をぐいと担ぐと、なかなかの重さだったが十分に運べそうであった。据わりの悪いところを何遍か担ぎ直して、村に向かってまた戻り始めた。
 荷物を取りに行くことは、予め青年に言われていたことだ。明るくなったら、出来るだけ早く取りに行った方がよいと。街道には、この時季には少ないだろうが盗賊も出る。荷物の中には大事なものも含まれているから、是非取りに行って欲しいと頼まれていた。剣や鎧も含まれているから当然だろう、そう思って、真っ先に取りに戻ったが、やはり心配なのは荷物よりもセルイ本人の容態だった。あの後どこへ連れて行かれたものだろう。後で宿の人に問いつめなければ。そんなことを考えながら、ふん、ふんと力強く進んだ。

 宿に戻ると、まだ人の起き出した気配はなかった。イウギは静かに、それも駆け足で廊下を過ぎ、階段を上った。格好だけ見たらまるで泥棒であっただろう。
 素早く自室に駆け込むと、扉を閉め、息をついて腰を下ろした。胸がドキドキしている。悪い人たちではないとは思うが、まだ信用は出来ない。必要そうなものだけを取り出して、他の荷物は全部寝台の下へと隠した。そして、だいぶん明るくなった窓を眺めた。


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