6−4

 しばらく雑談をしたあと、セルイが席を立った。
「申し訳ありませんが、井戸を貸していただけませんか。水筒が空になってしまっているので。」
「ああ、いいよ。ただここいらの井戸はとても深いから、落ちたら助からないよ。気をつけな?」
 セルイは頭を下げたあと、いったん部屋に戻って水筒を取り出し、またダイニングに戻ってきてイウギに小さく
(何でしたら私の分も召し上がってください)
と言い置いて、外へ出ていった。
 その様子を確かめてから、彼女は身を乗り出して密やかにイウギに云った。
「あの旅人は随分若いようだけど、世界を旅するなんて、子供の時から放蕩をやっているみたいだねぇ。」
 “放蕩”の意味はよく分からなかったが、わずかに非難の色を感じ取ってイウギは軽く眉をひそめた。

 外はすっかり日が暮れていて、珍しく星がでていた。冬も間近のオリオンが、大雲を薙ぎ払いその雄大な姿を誇示している。その星の下で、セルイは意図せず頭を垂れていた。
 彼は先程から感じていた脇腹への痛みが押さえきれずに席を立った。そして、今、井戸の石組みにもたれかかるようにして暗い井戸の底に顔を沈めている。
 間断があるものの、内側からナイフを斬りつけられているように左の脇腹が痛んでいた。右腕でしっかりとその部位を押さえながら、もう一方の腕で井戸の組石を砕けんばかりに掴んでいる。どちらの腕もしびれて、自分の意志の通りには動かせなかった。痛みが体を支配して、それに耐えるために自分はただ一つの行動をとってしまう。痛みの部位を別の力で抗して、紛らわせるのだ。だが人前では、特にイウギの前ではそれが出来ないので、彼は痛みと、その衝動に必死に耐えていた。今は暗闇が味方だった…。
 声にならない声でしばらく、青年はうんうんと唸ったあと、ばっと身を起こして汲み桶を手に取った。そして真っ暗な井戸の中にそれを放り込んで、力いっぱい手綱を引き上げ、何事もなかったかのように水を汲んで家の中へ戻っていった。

「遅かったじゃないか。井戸の場所は分かったのかい?」
「あ、…はい。大丈夫でした。お水、いただきました。」
そう言って彼は片手に提げた水筒が重いことを示して見せた。老婆はそれには興味はなさそうに、二枚分の皿を片づけていった。
「年寄りは夜が早いんだよ。あんた達も、明日があるんだから早いとこ寝なさい。」
セルイが素直な返事を返すと、彼女は部屋の奥に消えていった。
「では、私たちももう寝ましょうか。」
 柔らかな調子で青年が問いかけると、子供も素直に頷いた。


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