3−8

  ―空間が歪んでいる…―!?

 初めてその現象を目の当たりにしたとき、彼はそう思った。そこにあるはずのない月が浮かんでいた。
 この辺りの磁場の関係であろうか、月が二つ存在し、重なり合っている。場所によってその姿を変える様は、不気味なほどに気持ちを惹きつけた。なんだか、とても悲しかった。
 この話を子供にしたときの、その反応は過敏なものであった。この子はこの現象のことを知っている―…。しかし、それは馴れしたんだ現象に対する反応とは明らかに違っていた。何か、怯えるような、逃げ出したい気持ちを一心に抑えているような、そんな反応だった…。
 体調のこともあるし、「一度街に戻りますか」と聞いたものの、子供は首を縦に振ろうとはしなかった。絶対に村に帰る、そんな決意の表情だった。
 それで今、セルイは子供を背負って、山道を登っている。当初の懸念通り、こういう形になった。熱が引いたとはいうものの、体力がまだ戻らないのだ。長く歩かせるのは絶対によくなかった。
 奇しくも街道のはずれから街を目指して歩いていた、あの夜と同じ状況である。今は昼間だし、道は上り坂であるが、セルイは妙にあの夜のことを思い出していた。
(そういえば、あのときも足元が明るかったな…)
夜道に気を配るばかりで、上を見るこを失念していたから気づかなかったが、あのときも『偽りの満月』は出ていたに違いない。
 …そうすると、この現象は1週間ちかく続いていることになる。
(この子がガケあんなところにいたのと何か関係があるのか…)
そう思いはしたものの、なんだか訊く気になれなくて、青年はそのまま子供をおぶることにした。子供は固い表情のまま、何かを考え続けている風であった。

 鳥が羽ばたき、風が木の葉を揺らす。それ以外は静かなものであった。セルイの足音だけが、同じ間隔で山に響く。沈む気持ちを紛らわすかのように、青年は声をかけた。
「道はこのまままっすぐでいいんですよね。イウギさん。」
「う、うん…」
突然話しかけられて、子供は言葉に詰まった。
セルイはそれには気づかない様子で、話を続けた。
「そういえば、宿の女将さんにおもしろい話を聞きましたよ。湖に住む妖精の話です。」
思いがけない話題に、イウギはやはり言葉を継げない。
「夜になると、背が高くて、髪の長い、美しい妖精たちが水辺に現れるんだそうです。湖でしばらく行水したあと、またどこかへ去ってゆくらしいですよ。」
それを聴いて、イウギはあることに思いあたった。
(それって…。)
「それを見た者は、恐ろしくて声が出なくなるんだそうですよ。まぁ、それは多分、湖の冷気にのどをやられただけでしょうが」
そういって、セルイはおかしそうに笑った。
「事実、私も今、少々のどが痛いですしね。」
イウギはまた、思案に耽るように黙りこくってしまった。
しばしの沈黙の後、低い声でそっとセルイがいった。
「きっと、その妖精さんがイウギさんの一族なんですよね。」


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