3−2
歩調は順調であった。心配であったイウギの体調も今のところ問題はない。険しい山道も、辛抱強くついてきている。やっぱり、早く家に帰りたいんだろうな…。青年は子供の心境を憂いた。一刻も早く送り届けてあげよう。体の方も心配だ。 いざとなったら自分が負ぶってゆく覚悟であった。下りの時とは勝手が違うだろうが、気をさほど遣わなくていい分、前よりは楽なはずだ。そんなことを思いながら、青年はゆっくりと山道を先導する。 街道からは外れているものの、道はしっかりとついていた。村の人々がたびたび往復するからであろう。観光名所とまではいかないものの、トアダ湖の風景は一種のスポットであった。今の時季なら冴え冴えとした空が湖面に反射し周囲の山々の紅葉がとても綺麗なのだと、おかみさんが自慢げに話してくれた。ただ、湖に行く際、ひとつの注意ごとを受けた。夜になる前には必ず帰ってくること。それは難しいだろうと、青年は苦笑いした。するとおかみさんは声をひそめて同じ注意をした。この近代的な街の住民にそぐわない、信心深い様子であった。青年はこの話を聞いて、別のことに思い当たった。それでも、やはり夜までに帰る約束はできないと正直に言うと、おかみさんは諦めた様子で「まあ、気をつけていきなさい」といって手を振ってくれた。 パキパキっと枯れ枝が音をだす。青年は道のわずかな障害を丁寧に除けながらゆっくりと進んでゆく。時々後ろを振り返り、子供がちゃんとついてこれているか始終気を配った。子供はそんな配慮に気づく余裕も無さそうで、一生懸命斜面を這い登っている。青年はふっと笑みを漏らすと、また真面目な顔をして先へ進んだ。 しばらくして、前が一気に開けた。そこは、小さな峠になっていて、眼下に湖を一望できる。その秀麗さにセルイでさえも言葉を失った。湖はまるで鏡のように無色で、くっきりと空の模様を写し取り、周囲の山々は造りの凝った鏡の額縁のようでもあった。木々は死の直前の輝きを放って生を謳歌している。滑らかな湖面には風がはしり、小さなさざ波を生んでいた。ゆっくりと斜面を降りると、二人は波打ち際に立った。水は冷たく透明で、生き物の気配は薄い。なるほど、この豊かな水源に人が住もうとしないのは、厳しい自然条件があるのかも知れない。これほどまでに美しいのに、人が住めない土地…だからこそあんな伝説が生まれたのか…。 「ここがトアダ湖なんですね。見覚えありますか?」 子供はその問いにはすぐには答えず、湖の周囲を注意深く見回していた。すると、目的の物を見つけたようで突然、走り出した。 「あ、急に走られては!」 セルイもすぐさま後を追う。 湖は大きかった。対岸はずっと遠くにあり、波打ち際のほとんどは繁みに覆われていた。周囲は急な斜面で、足下には無機質で無骨な石がごろごろしている。足場の悪さに歩をとられながらも青年は必死に追いすがった。イウギは驚くほど軽快な足取りで、どんどん先へ行く。(やはり慣れてらっしゃる…)青年は心中密かに思った。
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