2−5
小さな命が怯えるのにも疲れ、眠りに落ちた頃、入れ替わるように太陽が目を覚ました。 奇跡の僥倖はゆっくりと上体をおこし、辺りの様子を確認する。秋の清涼な空気の中、シーツの皺まで明らかに見える。横で小さな生命が安らかに寝息を立てていることに安堵し、日に向かって感謝の意をこめる。清澄な朝、町は静かで、まだ路地に人影はない。彼は行くなら今しかないと思った。 いい加減、おとなわなくてはいけない。この街のためにも。自分のためにも。寝台を静かに降り、入り口の方へと近寄る。直立する外套掛けにゆくっりと細い腕がのびて象牙色をつかんだ。コートの中身が木に当たって澄んだ音を出す。この時を待ちわびたかのように、それは静かに主張する。彼は造作なくそれを羽織り、静かに表へ出た。 秋だけに、朝の空気は冷たかった。石畳が冴え冴えと光る。人の影はやはり無いが、そこここで生活の兆しが聞こえてくる。彼は足早に路を急いだ。 …急がなくてはいけない。「血裁」の時が迫っているのを肌身で感じる。数日繰り上げることは可能だが、先延ばしにすることはできないのだ。もし、この地を浄化できなかったら、自分の責任である。それだけは許されない。決して。なぜならこれが、自分に与えられた唯一無二の使命だからである。 気がつくと、彼は豪奢な扉の前に立っていた。あらかじめ場所だけは聞いていた。今はその権威を病院に奪われ、形式的な儀礼が行われているだけだが、かつては人々の信仰を一手に集めていた場所、教会である。風雨にさらされたレンガは、しだいに滑らかさを失い、赤い色はくすんで蔦が這っている。ガラスは透明度を失って、おぼろげな光を通すばかり。その中で重厚な扉だけが印象的だった。 青年は躊躇うことなく取っ手に手を掛ける。扉は、彼の力の加減に従ってゆっくり開いた。埃くさい聖堂内に、高貴な光が一筋走る。はげた黄金色がきらりと光った。赤いビロードの上に、彼は歩を踏み出す。かかとがカツンとなって、あとは音を吸い込んだ。相変わらず、彼の歩調は整っている。年代物の長机と椅子が両脇に整然と並び、中奥の天窓には象徴的なモチーフのステンドグラスがはめ込まれている。 祭壇の前にまで来ると、青年は厚くかぶったほこりを払い、コートの中から黄金の杯を取り出した。それを祭壇の上に載せ、空の杯の前で強く祈る。それから彼は恭しく杯をもちあげ、天を仰いだ。すると、ガラスを通して強い光が降り注ぎ、彼と杯を包み込んだ。高貴な時間が流れ過ぎ長い沈黙の後に、彼が胸元まで杯を戻すと、さっきまで確かに空だった杯の中に、透きとおった水が満たされていた。彼はゆっくりと頭を下げ、手の中の黄金水に感謝した。 それから「この土地のすべての人に幸福あれ」そう唱えて、杯を一気に飲み干した。
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