17−6

 春の陽気は確実に天の高らかさを謳っていた。
 天候は安定し、日差しはのぞいているものの強くはなく、年中で一番過ごしやすい瞬間である。もはや風の中に、あの人を拒むような冷たさはない。
 二人の旅人は、ちょうど森を抜けて開けた丘陵地帯に立っていた。牧草地なのか緑が一面に広がっている。生えたばかりの若草をはむ羊の群がのどかである。青白い小さな花が風にさやいで目を喜ばす。
「いいところだな」
イウギも思わずそうこぼした。青年が是という言葉を口にしかけた時、女の悲鳴が響いた。遠くてか細いが、確かに人の叫び声である。視角の端に、その音源を捕らえた青年は、それだけで駈けだしていた。その素早さに、横の少年は驚愕し、動きを止める。
 白い陽光は見る見るうちにその姿を遠くしていった。

 その場では、白い牝馬が人を乗せたまま暴れ回っていた。痛みと恐れで狂気の態である。
 なんとかそれを律しようと、手綱を掴んでいたか細い腕が、抗えきれずに指を放す。周囲の侍女らからまた悲鳴が上がる。
 その合間を、滑るように白い陰が躍り出て、落ちた主の体を下から支える。いや、支えるようにしてつぶされた。そうしないと間に合わなかっただろう。
 瞬時に走る衝撃と痛みに堪えてから、青年は庇った相手の顔を見た。
「…た、大丈夫、ですか…?」
瞬転。あとから走り着いたイウギが見てもわかるほどに、青年の顔が青ざめた。言葉が続かず、口をぱくぱくさせている。
 青年の腕の中の女性は美しかった。黄金に輝く豊かな巻き毛で、見据えるように強い瞳は、森の苔を思わせるグリーンだった。そして…
 周囲で狼狽えていた侍女と侍従が慌てて2人を引き離す。
「大丈夫ですか?お嬢様!どこかお怪我は…」
「いいえ、大丈夫よ」
言って、彼女は持っていた短い鞭を侍女に渡し、青年へと向き直った。
「どうもありがとう、助けていただいて。旅の方?」
「…え!あ、はい…。」
呆然として、尻を着いたままの青年に対して、彼女は見下ろすような格好で話し続けた。
「この時期は、旅をするにはもってこいの季節だものね。何かお礼がしたいわ、立てるかしら?」
セルイはかろうじて頷いて、何とか独りで立とうとした。が、右の足がこわばったまま曲がらないので、なかなか上手く行かない。慌ててイウギが横から助け起こした。
「足をつぶしたのね…、まあ大変。城へ行って手当をしましょう。」
馬を、と彼女は横の従者に命じた。セルイはあわてふためいて、首を横に振る。
「いえ!それには及びません。一時的な硬直ですから、すぐに治ります。あなた様のお手を患わせるには及びません!」
セルイの様子がどうもオカシイので、イウギは彼の腕の下から怪訝な顔をよこした。
 女性は彼の話を聞く気など毛頭ないかのように、先ほどの馬をよこして「さあ、乗って!」という。
 これは、高貴な身分のものしか乗れない白上馬ではないのか・・・・・。周囲の者も困惑気味だ。だが、一番狼狽して見えるのは当の旅人の方だった。
「いえ、とんでもない!だいじょうぶですから、どうぞ、お帰りになってください。」
「それは貴方に指図されることじゃないのよ。っさ、手を貸して!」
彼女が示すと、大柄の男2人が青年を抱え上げて、鞍の上にくくりつけてしまった。抗える余地もない。
 当惑しっぱなしの青年の足下で、イウギもどうしたらよいものかと、荷物を抱えてウロウロしている。それを見て、その高貴な女性は別の馬を寄せて一人で乗り、上からイウギに対して手を差しのべた。
「さあ、あなたも。悪いようにはしないから。」
細くて柔らかい、その指は、触れると見事なまでの力加減で少年を馬上まで引き上げてしまった。怪力というよりは、コツを知っているのだろう。
 相当に馬慣れしている。それなのに、落馬するようなこともあるのだろうか。
 彼女は先頭切って、馬を歩かせ始めたので、他の者達も次々と自前の馬に乗ってあとを追い始めた。セルイの馬は、専従の馬曳き係が手綱を引いている。こうなっては仕方がない…。先を往く、貴女とイウギの後ろ姿を眺めながら、青年は深い嘆息をもらした。


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