16−10

「イウギさん。それならこちらの本はいかがですか?少し、重くなりますが」
内容が、という意味なのだろうが、本自体の重量も相当ありそうな革表紙の本をセルイが奥から持ってきた。イウギは今読んでいる文章から目を離し、その装丁をじっと見る。
「おいおい、いくら何でも子供にその本は難しすぎないか?」
用材百科や彫刻の図案集を片手にセツも現れた。
「ええ、でも・・・」
云いさして、セルイはその表題に箔された金色の文字をなぞった。少し剥げてはいるが“エレバイン”と読める。
「この本は北の国の民話や童話を集めたエレバインという人の本なんです。だから、もしかしたらイウギさんの知っているお話がいくつか入っているのではないかと思いまして・・・」
それを聞いて、イウギがセルイの持つその書に手を伸ばした。真面目な表情で黙々とページを繰りだし、口に出しながら読み始める。ふぅむ、と息をついてから、セツも向かいの席に座ってそれに倣う。セルイだけがその様子を傍らで見ていた。

 閉館時間にさしかかって、イウギがこの本をもっと読みたい、というので、はやこの街の一員となったセツが自分の名義で借り出してくれた。自分もいくつか、仕事の参考になりそうな本を借りたらしい。セツとは路地で別れて、暗くなった歩道を二人は歩いた。イウギの脇にはしっかりとあの本が抱えられていた。

 宿に戻ると、部屋の中は灰紫に染まっている。棚のランプにセルイが灯をともした。それを元手に、今度は天井の灯りへと火を移す。すると部屋がぐっと明るくなった。用が済んだランプのオレンジ色を受け取り、棚の上に戻したあと、イウギは再び寝台の上に寝っ転がって本を読み始めた。セルイはやや離れた場所で荷物の整理や剣の手入れをしている。
 彼が剣をいじるのは珍しいことだが、今回は(ずいぶんとこの剣も活躍したもの)だからである。西大陸に足を踏み入れてからは、戦闘も絶えていたが、やはり、この地にも不浄は巣喰っているのである。いよいよ明け染めの出発点に近づきつつある彼の旅路は最終章に入り込んでいた。その中で気がかりなのは、やはりこの子供の安全である。自分では十二分に気をつけているつもりでも、闇の手は思わぬ所から伸びて来る。今回がそれであろう。そういえば・・・
 あの“名の無い村”で起きた悲惨な事件の際に、闇の手勢が漏らした言葉が気にかかる。
【言え!お前の弟はどこにいる!?】
あれはきっとイウギさんのことを指していたのに違いない。そして彼女がその存在に対して表した言葉・・・
『地獄の尖兵・この世に闇を芽吹かせる者』・・・。
別名を“種播く者”と言うことも出来る。
 世界の秩序が揺らぎ始めるとき、この世とあの世との間にある地獄の門を抜けて、この世界に災いをもたらす悪魔がいると聞いたことがある。悪魔がもたらす災いは、しかし副次的なもので、その真の目的は地獄との入り口を多く設け、関門を自由に突破し、多勢を率いて地上を制圧することにある。しかも、それは天を攻略する布石の一つにしか過ぎない。だから
(自分のような者がその盾にならなければならない・・・)
のである。
 とすれば、自分は奇しくも己が敵対するその親玉を目の当たりにしたことになる。それは、“彼女”の手引きがあったればこそだ。きっと彼女が残留思念を使って、自分とあの悪魔を引き合わせてくれたのだ。
(美しい人だったな・・・)
夕暮れの外を眺めて思う。
(もっと、早くに出会っていれば、いろいろな話が聞けたものを・・・)
青年は郷愁にも似た、胸の底から締め付けられるような哀惜を感じた。
 それにしても。と、セルイは手の止まっていた剣の手入れを再開した。
 あの闇の手勢が彼女の弟を、即ちイウギさんを、手に入れようとしたのはどういう理由(わけ)だったのだろう。あらゆる事を予見し、闇の行動を看破した彼女の能力は特筆すべきものだ。しかし、あの闇の手勢は、彼女よりもイウギを欲した。
(この子に・・・)
と、青年は密かに寝台のほうに目を向けた。
(この子に、それほどまでの重大な秘密が?)
今の、夢中になって分厚い本を読み耽る子供の様子からは、それを読み取ることは出来ない。


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