12−1
すぐさまイウギは診察室にとって返し、タオルや盥を引っ張り出した。この巨大な銀盥は、普段、産湯に使われているモノだが、そんなのをイウギが知る由もない。裏の井戸にまわって、桶三杯の水を汲むと、タオルを腕にかけ器用に全部、セルイの前に持って来た。彼は存外に力持ちだ。 イウギに重労働を頼みながら、セルイにはそれをすまなそうにする様子は見られなかった。ただただ、感謝の意をあらわして深く頭(こうべ)を垂れ、その水を恭しく戴いた。 両腕を水に浸けて血を洗い落とすと、次に丹念に顔を洗う。頃合いを見てイウギが白いタオルを差し出した。それを受け取り滴を拭くと、青年はすっかり元の顔になった。毛先にまだ血糊が残っているが、さっぱりとして気持ちの良さそうな笑顔を浮かべている。 そのことでもイウギは驚き、目を丸くした。彼の顔にも腕にも、血が出るような傷が一つも見あたらないのである。青年の所作には、痛みを堪えているといった不自然な動きもない。ならば、あの大量の出血は何だったのか・・・ 分からないことだらけの頭のままで、イウギは別のタオルでもって床の血痕を拭きだした。血滴を拭くと、大部分は布地に吸われてなくなるが、幾分かはのびて跡を残す。この手応えは間違いなく血液なのに、それを流した者の姿は認められない。この部屋には、青年以外の存在はいなかった。だが、その彼は無傷で、今も足を洗っている。これはどういうことなのか? 訊くにも聞けない状況の中で、イウギはひたすら手だけを動かした。その間にも、セルイがイウギに言葉をかけるということはなく、ただ彼のしたいようにさせていた。 主要な部分を洗い終えたらしいセルイは、ようやく向き直ってイウギの方を見た。床を粗方拭き終わったイウギも、立ってタオルを抱えたまま青年の顔を眺めた。青年に、相変わらず労いの言葉はない。 病後の彼は、イウギの知るいつもの彼とは違っているように見える。心配性であったり、多くの気遣いをしたりということがまるでないのだ。イウギは不可思議な思いでいっぱいだった。 「セルイ…これはどういう…」 手の中の血痕を指して、問いかけたその時、セルイは屈託のない笑顔を浮かべた。 「それはイウギさんのものです。貴方の願いが通じたという証なんですよ?」 邪気のないその表情に、イウギは呆気にとられてまた言葉を失った。彼が何を言っているのかが、まるで分からない。困惑し通しているイウギにかまわず、青年はまた一つの頼み事を言った。 「それじゃあ、そこの盥を持って私についてきてもらえますか」 その言葉には、まるですまなそうな気持ちは入っていない。また、断る余地も与えない。
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