話の展開 第二章はあんまり深い内容が決まってなかったので、とりあえず自分の今の知識を総動員してネタを作ってみたら、逆に膨らみすぎて収拾がつかなくなりエライ事になってしまいました。思っていたよりもゲストキャラ(ほぼエキストラ)の心情がずんずんせり上がってきて、作者はあやうく溺れそうになりました。ただの通過点だったはずなのに、今後もこの話は後々の尾を引きずりそうです。
ルツェの町 鉱物という意味のエルツ(Erz)から戴きました。安直です。
宿 鉱石の買い付け人が、春から秋にかけて泊まりにきます。なので宿屋の夫妻は、善人悪人を見る目が肥えています。悪徳商売人には鉱物を売る契約をしないよう、事務所の所長や鑑定小屋の親父に裏から念を押しておきます。小さな町が栄えて行くには、そう言った連携プレイのコミュニティが必要です。
銀朱 銀朱とは、朱砂・丹砂・辰砂・丹(に)のことで、硫化水銀の化合鉱物です。深い紅色を呈していて、擦り潰すと真の赤色になります。硬度が低いので宝石にはなりませんが、その色と輝きはルビーにも劣らないと言われています。
永いこと変色しにくいので、壁画や細工物の赤顔料に用いられます。古墳の石棺内にある製図の赤線も朱砂を使っています。朱砂の坑道は、坑の四方の壁が真っ赤になっており、その美しい景色はまるで血管内部にいるような錯覚を起こしてくれることでしょう。
ただし、川に流れ込んでこびりついていた赤色は朱砂ではありません。ベンガラ(紅殻)という時に朱砂と一緒になって出てくる酸化鉄です。朱砂に比べて。やや黒ずんでおり、質は落ちますがそれでも高級天然顔料です。山肌を赤く染めていたのもこの酸化鉄です。
朱砂が銀朱と呼ばれる所以は、加熱して抽出すると水銀が得られるためです。水銀は多く毒性を持ち、殺菌効果が高いので、医療現場で外用薬として用いられています。動悸を激しくする効果があるので強心剤にも仕えますし、少量ならば新陳代謝を上げて肌のきめを細かくする作用もあるとのことです。また梅毒などの追尾薬としても有効であり、胎盤を通過するので堕胎薬としてやんごとなき身分の人々にも人気が高いです(黒)
またこの水銀は、塩と一緒に焼くと白い粉末が得られ(塩化水銀)、おしろいとしても利用されます。先程のベンガラ=酸化第二鉄の赤・黒・黄を肌色になるよう配合すると、化粧パウダーとなって貴族のご婦人方に重宝されます。ちなみに庶民は鉛や亜鉛を焼いた二流品のおしろいで我慢します。
とにかく、銀朱は医療・芸術などの知識階層、王族・貴族などの支配階層からの需要が高いので、大変はぶりのいい商売になります。ルツェの町はそう言った背景があって、発展していった鉱山町なのです。貴族の間でも、この町の名はちょっと有名です。金が出たことでさらに有名になるでしょう。
ちなみに朱砂の鉱脈の近くには金や銅などの鉱脈も眠っていることが多いです。銅は猛毒ですが、金に害はありません。ただ、岩石から金を抽出するにはやっぱり水銀が必要で(アマルガム製法)ルツェの町はその手の知識の貯金はありますが、鉱物汚染から完全に抜けきったわけではありません。その点に関してはヤナの薬井の浄化作用に期待です。
ベスレヘム 通常はベツレヘム(Bethlehem)といって、キリストが飼い葉桶で生まれるハメになった町です。その町の上に星が留まったので、東方の3賢者はキリストの誕生がこの地であることを知ることが出来たのです。
この町の伝説と酷似しており、混同が起こっていますが町の人は寛容なので細かいことはあまり気にせず、教会の方も信仰心さえこちらに向いていればよいと言うことで黙認しています。
賛美歌 今回引用させてもらったのは賛美歌112と115番です。既存の訳文を参考にしつつ、ほぼ直訳で私が翻訳しました。なので、原文の意味や語法を勘違いしている部分があるかも知れません。音楽を聴きながら訳詞したので、頑張れば歌えないことはないですが、かなり苦しいと思われます。
また、この話のルツェ町テイストにアレンジされていますので、やっぱり原文の意味通りではないです。賛美歌の引用はほんの一部にしようと思っていたのですが、この話と案外対応しているところが多くて結局全文載せてしまいました。長くなってしまってスイマセン。
翼 天使の仮装の羽はいかにして作られているのか?山鳥の剥製を翼にしてたら嫌だなぁ・・・だので、多分屠殺した鶏の羽を大事にとっておき、ご婦人方がせっせと布か何かに縫い合わせて作るんだと思います(つまり母親の手作り)それはそれで、なにか嫌な感じがしますが・・・
感謝祭 その名前から、一神教が誕生する前からの原始的なお祭りなのかと思っていたら、やっているのはアメリカとカナダくらいでキリスト教とも関係のない割と新しいお祭りだったのですね。北米ではクリスマスの前の前哨祭(11月)といった意味合いが強いんでしょうが。なので、今回参考にしたのは料理と酒類だけです(爆)実際の感謝祭とはあまり比べないでください。
ここでの感謝祭はほとんど降誕祭(クリスマス)と同じですね。山境の町なので、冬の初めには一年の締めくくりをぱーっと祝ってしまいたいのでしょう。もちろん降誕祭も祝いますが、もともと外来の教義なのであまり熱心に感謝祭ほどには祝いません。復活祭(2月)はちょうど春の雪解けと一緒なのでちゃんと祝いますが。平野の宗教と山の習俗がごっちゃになってしまった亜変体の行事だと思ってください。
グルス・ゴ! 本来は南独の挨拶言葉で「グリュス ゴッド!Gru:ss Gott(神に挨拶)」といいます。感謝という意味はなかったと思いますが、その響きが好きなので、感謝祭限定の挨拶として使わせていただきました。
祭典 三位一体論じゃないですが、星と天使と賢者は実は同じものです。星は天使が現れるのと同時に誕生しますし、星を司るのは天使だと言われます。賢者は天使の声を聞いて人々に福を授けますから、天使の代行者だという事ができます。
子供達がコスプレする三者は年によって人気が変動します(笑)天使役は女の子がやることが多く、賢者は男の子がやります。星は男女ともやる役ですが、小さい子がやることが多いです。毎年賢者はあまり人気がありません(地味だから)しかし、インテリだったりオタクだったりするコアな層に妙に支持されています。
賢者は同時に客人(マレビト)でもあります。外界より寄り来て、人々に技術や福を授けてゆきます(スクナヒコナノミコト=大洗磯前神社)海のない山里なら門戸のところで出迎え、丁重に送り返すのが礼儀ですが、川があるならそこから船に乗せて流してしまうのもいいでしょう(蛭子)流されてゆく客人はその年の汚れ(病や死、不吉な出来事、恨み、呪い等)を一手にひきとってゆきます(雛人形・精霊流し・スサノオノミコト)子供を引き合いに出すお祭りには、その起源に相当な犠牲があったことが少なくありません。厄災で大量の人が死んだ場合など、その土地に根ざす深い恨みや呪詛を浄化し厄災を避けるのが目的です。なんで子供なのかというと、その無垢な魂が神に近しいからそれを祭り上げて鎮める、とかまたはまだ罪に汚れていないその精神でもって悪意を退ける、とかまたは単に生け贄にする等の理由が考えられます(若宮信仰)
蝋燭の炎は人間の魂にも比定されますが、この場合は星(金)でしょう。町の家を巡って神の使いが火を分け与えることは、その年の厄災を避ける守り火をもらうという意味があります。すなわち福を授けてもらうのです。
天使と坑夫 前述の事項とは別に、このお祭りには別のモティーフがあります。天使と坑夫が両手に蝋燭を持ち立ち並ぶという人形です(写真)これも、ドイツの木製おもちゃのマイスターを輩出する元鉱山町に伝わる伝統工芸です。まるで婚礼の儀式のようですね。天使はとても女性的です。
イウギにこれから自分がついてゆく方を蝋燭をとらせて選択させるというシーンも、ここからヒントを得ました(なので構想的にはかなり最近)蝋燭の炎は神秘的で、その明かりは高い信仰心を象徴しているように思います。このドイツの町で、どんな祭りが行われていたのか知る由もありませんが、多分この話で私が想像したようなものだと思います。祭列の様相で、星を掲げた神父が先頭を行き、その後を鉱石を持った坑夫たちがついてゆくというのも、ここの博物館のおもちゃを参考にしました。聖歌隊もいましたよ。
泉 泉に関する信仰は、あまり表に出てきませんが、実は古くて深いと思われます。神社が立つ場所には必ずと言っていいほど密やかに泉の湧く場所があり、神社自体が元は池や泉のあった上に立っていることが少なくありません。むしろ、神社がそこに建つきっかけになったのが湧き水だったとも考えられます。西洋人にとっても泉の信仰は深く、騎士などは意中のご婦人を、手に入れがたい清く貴いもの(しかし必ず自分を潤してくれるもの)として泉に例えたりします。後世キリストの化身または使いとされるユニコーンが、その角で地面を突くと泉が湧いたという説話もあったと思います。天水(雨)が得られないとき、人々は湧水(泉)に命の糧を見いだします。干ばつの時、泉を発見すればそれは天の助け、神の恵みとしてありがたがられることでしょう(だったらそもそも雨を降らせよという感じですが)
薬井、という名前は、その水を飲んだら万病が治ったという説話に由来します。そういう特許的なうまみを保有していないと人々の信仰が得られないんでしょう。
ヤナの泉にはこれから、補強工事も行われるでしょうし十数年もすれば神殿が建ってもおかしくないです。それに付随して診療所も医療施設兼礼拝場として発展してゆくことでしょう。おかしな旅人二人については、医者の先生が推測を含めた詳細な事例を書物に残していくと思います。それが何百年も立てば伝説にもなるんでしょうが、それはまた別のお話ということで。