=後考1=

 おや、見つけましたね。このページは一仕事やり終えたぞ、という作者の自己満足にこつけた密やかな作品解説の場です。 何を思い入れながら作品を書いていたのかが、それなりにわかるとは思いますが、ほんの余興ですので無理につきあう必要はありませんよ!気になった方だけごらん遊ばせv

 一連の展開 子供が崖から落ちて青年に助けられ、村に戻るとそこにはもう村はなく、他によりどころのない彼は青年と共に旅に出る。この構想は中学の交換日記の時から変わっておりません。ただ、表現として子供→青年→子供→…という主人公の視点が入れ替わる形式は偶然の産物です。草稿を書いていて、気づくとこんな形になっていました。かといって、今更この形を崩すのも面倒なので、それなりにこの形を続けていきたいと思っています。これから登場人物が増えれば、また徐々にちがった形式になってゆくと思います。

 記憶喪失 二重人格に並んでハプニング系のオーソドックスなパターンであるにもかかわらず、取り扱いが非常に難しいという設定。今回全くそれを活かせなかったのは、物書きとしての技量が足りませんでした。敗北。

 心の灯心 人の心の中には炎があって、それが燃え上がるとエネルギッシュになり、消えかかると鬱になる。体や精神の状態によっても変化し、なかなか一定に明るいということがない。 それを常に一定に保とうとする努力をする人が修験者であり、出来るようになった人が覚者だ、と思う。

 戒律 え〜と、セルイの自己縛りですが、第1章ですでにいくつか出てきておりますね。モティーフはやっぱり「他人のものを盗むな!」で有名な?モーゼの十戒です。でも、この話での戒律は12〜13個ぐらいある予定です。戒律というものは、何処の教義にでもあるもので、人間の守らなきゃいけない倫理観に常に接しております。人がやってはいけない決まり事のようなもので、もしこれを破れば、人は何らかの資格を失います。しかし、条文化された戒律というものは、どこかしらで必ず抜け穴があるもので、例えば回教で有名な断食月。太陽が出ている間は、ものを食べちゃいけないというものらしいんですが、ならば太陽の出てない間は好きなように食いまくれということで全然断食になっていないようなことがあるといいます。このように、戒律をくそまじめに真正面から守っている人間はそれこそ少数だと思われます。セルイに関しても、戒律に対してなんだかんだと言い訳を考え始めた時点で、聖職者の零落が始まっているといってよいです。

 天空の星弦 ギリシャの哲学者ピタゴラスは弦の長さと音階について定義し、美しい音楽(和声)は単純な数と数の比率の問題であることを発見しました。そして宇宙は数こそ、その根源だと考えていた彼は、天体の運行もその比であらわせるとし、星と星の間はあたかも弦が張られているように、美しい音楽を奏でているのだと説いたのでした。さすが、夢見がちです。本作で不協和音がどうとか言っているのは、余りに近しい存在が傍にいると逆に均衡が崩れる、ということを暗示しています。2:3なら音は響き合い、美しい和音をつくりますが、それが1:1.002とかだと却って都合が悪い訳なんですね。この弦と数による宇宙音楽は人間の耳には聞こえないということになってますが、本作品では聞こえる人間も出てきます。

 針葉樹 チクチクとした葉は邪を威嚇します。冬になっても枯れない常緑の葉は、神秘的な恒久性を感じさせときに信仰の対象にも成ります。

 妖精の村? 子供と老人のいない常世(ティル・ナ・ノーグ)のような村。それにはこの村の部族に関する秘密があるからですが、それは外伝の方で触れてあります。本編では、まあ、おいおいと・・・

 ヴァロムヴローサ 秋の死の谷と訳しました。J・ミルトンの『失楽園』に比喩表現として載っていて、イタリアの古き秋の景勝地だそうです。そして水に落ちるその木の葉は、何故か大量の死体に例えられています。そう言えば平家物語の話の中でも、戦に敗れ、海に浮かぶ平家の死体を「竜田河の紅葉ばを嵐の吹散らしたるがごとし」とか比喩してましたね。やっぱり水にぷかぷか浮かぶ木の葉は死体のイメージなんでしょうか。同所には紅海に嵐を連れてやってくるオリオンの描写も見られますから、秋と嵐・紅葉と死体の関係ははずせないようです。

 その他 青年がイウギに対してだけ執着心を見せるのには意味があります。イウギの姉が、イウギ本人ではなくセルイを自分の元まで招き寄せたことにも意味があります。イウギがセルイを選んでついてゆくことにも意味があります。ですが、それはこれからのお話の展開によって、明らかになってゆくことでしょう。

参考文献:ジョン・M・ミルトン『失楽園』(上) 岩波文庫

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