1−1
ハァ ハァ ハァ
夜の森の中を突き抜ける影がひとつあった。 恐怖で脳芯は痺れ、悲しみで心は凍えるようだったが、走った。 振り乱す手足は、風を切って冷たい。枝々に裂かれる皮膚は、時々思い出したように短い痛みを送る。夜露に濡れた衣服が、足にまとわりついて、息はどんどん乱れる。
それでも影は走り続けた。
バサッ
また一振りの枝が、腕にかかる。その揺れは存外小さい。
それは、この影がまだ、あまりに幼いからだ。
“何故”“どうして”“こんなことになった!?”“わからない…”
思考は混乱していた。ただ、自分が完全に孤独なのだということだけが絶対だった。 空回りする回路、迷走する伝達物質。断片的に顕れる家族の顔。知覚するまもなく過ぎる周囲の景色。 いろいろな要素が、この小さな箱(あたま)の中で狂い踊って、いましもはち切れそうである。
ずるり、と足の底が滑った。露を含んだ土は、ぬかるんで粘度を増し、木々の根は突然に歩を奪って、ますます走りの均衡を崩す。
―…疲弊していた。嫌になっていた。楽になりたかった。
何度停まってしまおうかと思ったか分からない。しかし、それは許されない。闇はどんどん追いすがってきている。そんな気がする。 諦めたとき、自分は死ぬのだろうか。何に殺されるのだろうか。それは苦しいことだろうか。今、この時より辛いことなのだろうか。
―…もう、楽になってしまおうか。
そんな思考が横切ったとき、思い掛けないことが起こった。 《うわぁぁぁぁ!!》
子が叫ぶ。だがもう遅い。足下が崩れ、奈落の底へ落ちてゆくのだ。 仰むけに上向いたとき、月が見えた。
―…一体、今日は満月だったろうか…―
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